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2010年6月 6日 (日)

紀州人はお人好しではなかった

海南から南へ20㎞ばかり、和歌山中部の有田郡広川町というと稲村の火の濱口悟稜で有名です。防災教育も兼ねた資料館が町内にあって、3D映像で津波に対する教育と濱口儀兵衛の業績映画を見せてくれます。その儀兵衛が安政南海地震で一波目の津波から辛くも逃げおおせてたどり着き、救難活動の拠点となったのが広八幡神社でした。なるほど広の町よりは少しは高くなっています。ここに悟稜翁の顕彰碑が建っていますが、案内を読んで、自分のこれまでの思い違いに気づきました。

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和歌山県の湯浅地方で醤油がまず生産されたが、銚子へ伝えそこで大産業になったとか、鰹節も最初はここらで発明されたが他所へ広めた。その他ありますが、冒険的で進取の気風はあるが、お人好しで他所に製法とかを伝えてしまって、その先の方が大きくなってしまう、という、県人間ではよく語られるネタです。確かにそういう気性はあるとも思いますが、少なくとも理由の一部はそうではなかったようです。

周辺の漁民は、16世紀後半の天正頃から九州、少し遅れて銚子近海まで出漁、移住もあったようですが、その理由というのも、天正の兵火(豊臣秀吉の紀州侵攻)による広の焼き討ち、宝永4(1707)年の大津波による壊滅的被害、それに続く近海での不漁などだったと言います。つまり儲けのためというよりは、難民的拡散も多かったというわけです。

おそらく数世代間隔で何度も津波に洗われてきたのでしょう。684年の分からは記録に残っています。濱口儀兵衛の活躍した時の地震津波は1854年ですが、彼の偉大だったことは、次の南海大地震(1946)の時有効だった堤防を築いたこと、この時の難民化を防ぎ復興に尽くしたことですが、その事業を可能にした実力は、既に江戸に進出して財力を持っていたということですから、前回の紀州人拡散の成果をフィードバックしたということかもしれません。

それから稲村の火というのは、収穫後乾燥している稲穂にわざと火をつけ驚いて村人が集まってきたら津波がきた、という文脈で覚えていましたが、実際は第一波の津波の後、闇の中の避難方向を、藁を積んだ山に火をつけて示したということで、これも思い違いでした。

ご参考までに。稲むらの火の館に立ち寄られることもお勧めします。津波はこわいよ。

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