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2010年9月20日 (月)

黒江の街の歴史を考える(池崎山の池とはどこにあったのか)

連休ですが、土曜は公民館主催の地元イベントの案内、日曜は河内の酒イベント参加と、なにがしかの活動があります。読まなきゃいかん資料もあるしな。

まずはローカルネタからです。

自分ン家の酒蔵を案内して一応終わりなんですが、それから一行が黒江の街の散策に行くのを、いい機会なので後をついて行きます。

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どうも堅い書き方になりますが、旧の黒江を説明すると次のとおりです。

蔵の北側に標高100mクラスの、東北東から西南西に伸びて海に至る船尾山があり、東側にブタ山とも呼んでいた城ヶ峰が標高200m以下で構え、丘の隙間の北東の標高8m程度の峠から南西向きに降りてくるのが黒江坂、坂の底が蔵あたりで、熊野街道は今度は南向きに坂を上がって行き日方へ向かいます。南側をまた西に突き出した丘があって、池崎山と呼んでいますが、これらの丘で三方を囲まれた、南西向きに開かれた地勢で、池崎が切れた先は船尾になりますので、昔から黒江というのは、北東-南西方向に伸びた形状となっています。

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これで海面がずっと高かった奈良時代の頃、蔵の当たりまでが海の入り江で万葉集の黒牛潟として詠まれているのは有名ですが、その黒牛というのは黒い牛の形をした岩で、干潮時には現れ、満潮時には隠れるという状態だったといいます。中言神社の鳥居から東南方向といいますから、図上たしかに酒蔵の真上を通る線にあたり、言い伝えでは蔵の裏の米屋がある辻あたりとも蔵の下とも言われています。地籍調査の過程でもっと南の方という新説も出ていますが、岩がそこにもあったということでしょう。

江戸時代にはとうの昔に埋まっていて所在不明であったといいます。川端通りへ出る角を中心に楕円状の小道が東側に2重ないしは3重に確認されますが、おそらくは海退の証拠で、海が引くに連れ最も海に近い道ができていったという形跡です。鎌倉時代の地震でこのあたりは隆起したとも言われています。

江戸前期に今の川端通り沿いが埋立られ、一旦区割りした後少し角度をずらして水路と道を引いたため、平均102度角の平行四辺形で約50坪ずつのマス目状の区画割が作られ、特徴のある町並みが出来上がり、(他の説もありますが)、黒江一村限で黒江塗産地として保護され、繁栄します。この中央の水路は、昭和初期に暗渠化され幅12mくらいの幹線道となって川端通りと呼ばれています。

ただし、元屋敷に渋地椀の職人が戦国時代からいたとされます。黒江御坊は1504(永正元年)創建、人里離れた所に大きな寺が建つとも思えません。私見では山名義理が大野城へ南朝方の湯浅制圧のため守護所を置いていた14世紀後半には、政治の中心地に近い海辺の日方(干潟から転じた)、黒江あたりに人が集まり、職人達も移住してきたと考えるのが妥当と思われます。位置関係から川端通り沿いがまったくの海であったとも、地元民としては考えにくく、おそらくその時期には干潟状態となり、奥の部位、微地形より考え、蔵の南方市場付近は池状になっていた可能性があります。大野城の枝城として、城が峰や洞山城が配置されますが、池崎山が洞が城で、和歌浦方面への交通路を押さえる役目であったことは想像に難くなく、その「池」崎とは、どこの池のことであったのかという、地元民しか考えないテーマが私にはあります。

蔵、自宅の地名は字元屋敷で、黒牛という小字は黒江にはありません。まさに地名は言葉の化石というとおり町内会名として残っています。元屋敷が元の住宅地域、その南は字市場、元屋敷の西端を南北に黒江御坊へ登る通りがあります。それが江戸初期に海岸沿いだったかどうか。以西を埋立たにせよ、きっと干潟か海岸砂丘、芦原の荒れ地で、池崎山寄りには池があったと16世紀後半の風景を再構成してみました。

さて池は本当にあったのか、あるいはどこにあったのか。

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